中学生の頃、萩原朔太郎にはまった。どの詩もかっこいいし、本人もめちゃくちゃハンサムだし。すごく恵まれてるはずなのにやたらと神経質で不幸そうなとこも好きだった。たしか、室生犀星との初対面時の印象を、相手が不細工なんでがっかりしたと書いてて、(美形は残酷だなあ)と思ったりしたっけ。
大人になって、折に触れて思い出す詩があって、でも朧げな記憶で、正確な詩句が分からなかった。さっき思い立って青空文庫で検索したら見つかった。
地球を跳躍して
たしかに私は、ある一つの特異な才能を持つてゐる。けれどもそれが丁度あてはまる[#「あてはまる」に傍点◎]やうな、どんな特別な「仕事」も今日の地球の上に有りはしない。むしろ私をして、地球を遠く圈外に跳躍せしめよ。
この人はずっと生きづらかったろうなと思う。室生犀星や三好達治と親しく交われたことは萩原朔太郎にとって何よりの幸せだったろう。
で、いきなり話が飛躍するが、この頃、この詩を思い出すのは、「非定型発達者には特別な才能がある」「才能がない非定型発達者のほうが多い」という論争?嘆き?に触れる時だ。
私は人よりも多く、幼児や児童と接してきたと思う。プライベートでも仕事でも。とはいえしっかりした専門的な教育や訓練を受けたわけではない。教諭、保育士免許を持っているくらいだ。だから、単なる個人的な経験からの主観に過ぎないが、人間は幼い頃、個体差が大きく、驚くほど個性的だ。それぞれが独自の才能を持っている。それが、大きくなるにつれ「普通」へと収斂していく。その中で、収斂されてしまわず「独自性が強い」ままの人がいる。その独自性が社会的に役立たない場合、その人は「発達障害者」と呼ばれてしまうように思う。
「非定型発達者は特別な才能がある」「いや、ない人もいる」自体が意味不明で、人にはそれぞれ才能がある。ただ、その才能を発揮できてないだけだったり、発揮しても社会的に有用じゃなくて無視されてるだけなんだよな、と思いつつ、朔太郎の詩を思い出している。
今回、萩原朔太郎のwiki読んでたら、あれ? この人の成人するまでって、それこそうまくいかない非定型発達者そのものじゃないかと思ってしまった。