娯楽であり罪悪だと思ってました。私の読む本は読み物がほとんどだったんで特に。私の父も大量に本を読む人でしたが、時代小説やミステリといった読み物系の本は、読み終わると庭の落ち葉を集めてたき火して、一緒に燃やしてしまうのです。「まだ読んでないのに」と拾おうとすると、足でざっと蹴飛ばして火の中につっこみ「つまらんもん読むな! だめ人間になるぞ!」とか怒鳴る。自分も夢中で読んでたくせに。でも、たき火をぼんやりとながめる父は、なんか屈託ありげで、それは本のせいなのかなあと思うと、読書が良いこととはとてもじゃないが思えませんでした。
小学校高学年で視力が落ちてきた私は、視力回復センターというところにバスで通わされました。近くの書店で本を買うのがなによりの楽しみでした。おこづかいをこつこつためて買いました。「ドリトル先生」シリーズは最初の頃一冊550円だったのに、ちょうどオイルショックの頃で、最後のほうは1350円だったかに値上がりしたっけ。そのあと星新一にはまり、新潮文庫から出ていた作品を(たぶん)全冊読んだあと、今度はクリスティにはまったのは真鍋博の装丁のせいかもしれない。帰りのバスの中で読んでいたからか、視力は全然回復しませんでした。読書は身体によくなかったのはたしかです。
自分が大人になって親になっても「本を読むこと=良いこと」とはこれっぽっちも思ってませんでした。絵本を大量に買い込んだり、夜寝る前に子供に本を読んだりするのも、自分が読みたいし楽しいからでした。父みたいに「読むな!」とは言わなかったけど。子供が少し大きくなってからは本の話題で一緒に盛り上がれて楽しいとは思ったけど。子供二人は親に似てインドア派で本好き。学校の先生には「あんまり本ばかり読んでいたら、晴れた日には本を読まないで外に出るように声かけてください」とお願いしてました。普通の人がゲームに対してもつ感覚と同じ感覚を私は本に対して持っていました。
そういうわけで「読み聞かせ」のサークルに誘われても、なかなか入る気になれませんでした。(そんなことより子供がしなくちゃいけないことは他にあるんじゃないの?)と思っていました。私は友達が少ないし、誘ってくれる人はいい人だったし、子供が「お母さんは本が大好きなのに、なんで学校に読みにこないの?」というので、えいやっという気持ちでサークルに入ってもう7、8年。正直「絵本を読む=良いこと」とは今でも思っていません。でも子供に絵本を読むのは楽しい。紙芝居屋さんになった気分。楽しみに待ってもらえたときはうれしいし、ウケるともっとうれしい。自分の子が大きくなったから小さい子がかわいくて会うのが楽しみ。
そして、いまさら気がついたのは「本を読む習慣がある子はとても少ない」ということ。っていうか「日常的な文章をすらすら読めない子はけっこういる」ということ。例えば、国語のテストがあって、例文をざっと読んで内容をとれない子、時間が足りない子はたくさんいるということ。中学生でも、国語の教科書をつっかえながら読む子がけっこういるということ。そういう子達は、大人になってもそのままなのかもしれないな。映画の字幕を読むのがめんどくさいという話はよく聞くし。だとすると、子供の頃に、「ある程度」本を読むことは「良いこと」かもしれない。抵抗なく文章を読み、内容をとる技術を身につけるうえでは。
でも本を読むのが嫌いな子に無理に本を読ませても苦痛なだけで、かえってドリルなどで文章題を解かせたほうが効率がよい気もします。特に、「この子は文章を読むのが苦手だから」と内容がやさしい読み物を与える人がいるけれど、それは逆に「本ってつまらんもんだ」と思ってしまいそう。文を読むのが苦手な子が、他の能力も低いわけじゃないから。中学生に小学校低学年の読み物読ませてもおもしろくないよなあ。それに「読み物」系の本を読む力と、そうじゃない本(とひとくくりにするのは乱暴だけど「文学」じゃない本?)を読む力は別な気がする。父は、読み物じゃない本を読むことはとがめなくて、岩波の『πの話』だのファラデーの『ロウソクの科学』だのをせっせと買ってきては勧めてくれたけど、当時は読むのが苦痛でした。全然、内容が頭に入りませんでした。多分、今読んでもすごく時間かかると思います。今は興味がないことはないんですが。そういや息子と数学の話ができたら楽しいかもと思って買った『数学は言葉』、まだ読んでない。お盆には帰省するだろうからそれまでに読んでみようかな。