長年読書を楽しんでいると手放しがたい本も増えてくる。若い頃から、本棚一つ分を、そういう大切な本の置き場所にしていた。ここ十年ほどは本が読めなくなっていたので、ほとんど増減もなく、本棚を開けることもまれだった。五月頃だったか、久しぶりにガラス戸を開けて中の整理をしていたら、茶色のシミが点々とついている本が増えていてショックだった。たまには風にあてないとだめなんだな。そういや原爆死没者名簿も必ず年に一回虫干ししているし。あまりにショックで、他の人にも価値がありそうな本を何冊か手放した。私が持っていることでだめにしたら可哀想、まだ綺麗なうちにもっと大事にしてくれる人に譲ろうと思った。それなりの値段で売れたこともあって、今のところあまり後悔していない。死蔵するくらいなら所有しないほうがいい。
今月に入って、(そういや着物も…)と思って出してみたら、こちらもカビているものがちらほら。虫食いでだめになった半襟もあり、がっかりだ。クリーニング代がかなりかかった。若い頃から、いつかは着付けを覚えて着てみようと思いつつそのまま。着物、帯、長襦袢、小物一式をセットで揃えていればいいが、祖母と母の古い着物や、和裁を習っていた母が脈絡なく仕立てたものばかりで、知識がない私はどれをどうやって着れば良いのか分からない。着付けの仕事もしていた姑に教わろうと考えていたが、もう無理だろう。母が元気なうちに着物を持って実家に通うか。
好きな物を所有するのは楽しいが、わずらわしさも大きい。自分にとって何が大切かを考えて、手入れするのが楽しいものだけを手元に置いていかないといけない。
……といいながら、本を売った代金は、ティーカップを買うのに使ってしまった。突然のティーカップ熱。着物や本と違って虫食いの心配もないし、日常使えるし、これはいいんじゃないかと思ったのだ。「昭和の頃のティーカップって、これから価値が出ると思うんだよね。」と夫にいうと、「ただ欲しくなっただけやろ」と言われた。まあそうなんだけど。
幸か不幸か、「昭和の頃のティーカップ」を買うのは本と違ってハードルが高い。状態が良いものを集めようとすると、死蔵されていたセットものを買うことが多くなるので、かなり嵩張ってしまう。置き場所がない。要らない分を売ろうとしても簡単には売れない。ここ数ヶ月でいくつか集めたことで、熱が醒めた……というか、これは資金力がないと続かない道楽だと諦めつつある。とはいえ、気に入ったティーカップで飲む紅茶はいつもより美味しい気がする。ネットであれこれ探して楽しむのはしばらくやめられそうにない。
以下は、集めたティーカップのいくつか。どれも一客あたり千円もしない。今後も大して価値は出ないだろう。でも愛らしい。
一番気に入っているティーカップ。カップ底に「Wellesley」と書いてある。マサチューセッツ州にウェルズリーという町があるそうだ。白い花びら部分が浮き出しになっているところがいい。
ネットショップやオークションサイトで時々見かけるので、当時人気商品だったのかもしれない。ちょっと中国っぽい文様。
色使いが和。ソーサーの文様が星形に配置されていて、がんばって洋風にしました感がある。
縁取りの金銀は、使っているうちにどうしても擦れて薄くなってしまう。大倉陶園は修理をしてくれるそうだが、残念なことにデザインがゴージャスすぎて私には向かない。その中でこの三色小花文様のカップは可愛らしくて好み。
ずっと普段使いにしてきたのはイッタラのカップ&ソーサー。シンプルで飽きがこなくて丈夫。これさえあれば他は要らないと思っていたのに。
叔母の家に行った時に、ティーカップを集めている話をしたら、「私も集めているのよ」といって、このカップでコーヒーを出してくれた。美しいし、ストーリー性もあって素敵な器。