元活字中毒主婦の身辺雑記

日常の細々したことなど。

学校って苦手だ〜とつくづく思った

今朝は、中学校で「雪女」を朗読してきました。月2~3回、朝10分程度の時間をもらって、絵本を読んだり朗読をしたりしています。中学校からの依頼で始まったことですが(ただでさえ忙しい中学生の、貴重な朝の時間をもらうのは悪いなあ。ゆっくり過ごしたいだろうに。)という気持ちが強いです。

 

とはいえ、小学校の頃から、こういう時間を経験して中学に入ってくる子がほとんどなので、みな大人しく聞いてくれます。ぼんやり過ごせる時間と思ってくれたらいいし、興味をもったり楽しみにしてくれる子がいれば、それはうれしい。私としては「何の役にたつかもわからん時間」というスタンスでやってきたのですが…。

 

前にも書いたように、読書指導(?)の先生から「これからはより成果がでるように工夫していきます」と言われて、げんなりしました。絵本だと教室の後ろまで見えにくいので、試験的に机をさげて体操座りで待機させてみました! って時もありましたが、いやそんなわざわざいいんですよ、忙しいのに。そもそも、小学生と違って体が大きいから座っても端っこにいる子にはよく見えないし、だからってぎゅうぎゅうにくっつき合うのはつらくない? たしかに絵本は見づらいし、何かよい方法はないかねえとサークル内で話し合ってはいます。

 

しかし、何で急に「成果を!」みたいな話になったんだろう? ということで事情を聞いてみると…他にもこういう朝読書的な活動を始めた人がいて、元々が教師だったこともあり「こういう実践により読書に対する意欲が高まりました」的な活動報告書をまとめたらしい。「元はと言えば、うちが一番に始めたのに…って思いもあるのかなあ」と、まあ勝手な憶測ですがありそうな話。「そっちはね、朝っぱらから結構読み応えのある本読んでるみたい。ブックトークとかもやってるって」とのことで、教育的活動臭が半端ない。人がやる分には構いませんし個人の自由ですが、私はやりたくない。

 

来年度からは「回数を減らして、でも一回ずつは万全の体制でしっかり聞く姿勢を取らせたい」と言われて、いやいやいや、逆だよね、そんな「特別な体験」にする必要はなくて、回数や一回あたりの時間を増やしたほうが、生徒が自分に合うものに出会う確率が上がるでしょ、と思いました。学校も忙しいので時間を捻出するのが難しくて「最短の時間で最高の成果を」ってことかもしれませんが。

 

そもそも、こういった活動によって、そんなすぐに「成果」がでるもんじゃないと思います。地域の人がなんとなく自分たちのことを気にかけて色々世話焼いてくる、ってだけでよくないですか? 結果として大勢としては(めんどくさい、大きなお世話)と思われてるだけでも、ごくまれに(そういやあんなことあったなあ。あんな話読んだなあ)とわずかでも心に残ってくれれば、それでよくない? と思うのですが。

 

先生には先生の事情があるのでしょうし、生徒に読書の楽しさを知ってほしいという熱意はわかります。忙しい中での企画は大変だろうと同情もしますが「やっぱ、学校って苦手だなあ」とつくづく感じてしまいました。

 

ベロ出しチョンマ (新・名作の愛蔵版)

ベロ出しチョンマ (新・名作の愛蔵版)

 

 

下の弟が小学生の時、授業参観が国語の授業で「ベロ出しチョンマ」だったそうです。「どうしてチョンマが処刑されるときに処刑人たちはのろのろ動いたのですか?」と先生が質問したら、誰も答えず教室がしーんと静まり返り……手をかえ品を変え、なんとか答えさせようとしてもどうしようもなく(そんな無理やり答えさせんでもいいのに)と母は思ったそうです。結局、弟が挙手して「処刑する人たちも本当は殺したくなかったから。チョンマたちがかわいそうと思っていたからです」と答え、めちゃ褒められたらしい。「いや〜あいつらしい。優等生! 先生の気持ちがよく分かってらっしゃる」と言ったら、母が苦笑いしてました。

 

でも、答えが分からなかったらそれでいいのに。ずっと時間が経って「あ、あれって実はこうだったんだ」と気がつく瞬間を幼い人たちから奪わないで欲しいです。まあ、授業でそれは許されないのかなあ。